坂城町出身の方を紹介します

村上義清 

川中島合戦屏風絵
川中島合戦屏風絵に描かれた村上義清

 村上氏は清和源氏の出身とされ、当町の村上郷に発祥し、信濃埴科(はにしな)郡葛尾城を本拠とする信濃北東部の有力国人で、義清の頃には佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな)・埴科・高井・水内(みのち)の六郡を支配する大きな勢力となっていた。

 義清は文亀三年(1503)3月11日に顕国の子として生まれ、左衛門尉のち周防守を称すことになる。 義清は猛将と呼ぶにふさわしい人物で、天文十年5月(1541)には諏訪頼重とともに信玄の父・信虎に加担、海野平の戦いで海野棟綱を破り、海野氏を信濃から追い出している。

村上18将図
村上十八将図

 しかしこの直後に信虎は晴信(のち信玄)のクーデタにより駿河に追い出され、以後武田氏は信濃侵攻を開始、義清は武田晴信との対決を余儀なくされることになった。 義清は何と言っても「信玄を二度破った男」として有名だが、最初は天文十七年(1548)のことである。前年に佐久郡の志賀城(佐久市)を落とした晴信は、義清の支配する小県郡への侵攻を開始、迎え撃つ義清は2月14日に上田原の戦い(上田市)で武田軍と激突した。この戦いで義清は板垣駿河守信方・甘利備前守虎泰ら晴信の重臣を討ち取り、晴信をも負傷させるという会心の勝利を得る。 二度目は同十九年のこと。この年の七月に晴信が小笠原長時の居城・林城(松本市)を落とすと、長時は義清のもとへ逃げ込んだ。晴信が義清の持ち城で郡中最大の堅城といわれる砥石城(「戸石」とも書く・上田市)へ押し寄せると、義清は兵を率いて救援に駆けつけた。晴信は9月9日から総攻撃をかけるが、城は堅牢で落とせず膠着状態となる。やがて武田軍が退却を始めると城内の兵が討って出、村上勢は壮絶な追撃戦の末に晴信の将・横田備中守高松を始め千余の兵を討ち取るという勝利を得た。この追撃戦は世に「戸石崩れ」と呼ばれている。

  しかし同二十年、晴信の将・真田幸隆の謀略により戸石城が奪われると、ここから義清の武運が傾き始めていきました。頃は良しと判断した晴信は二十二年4月になって義清討伐に出陣、この日葛尾城を攻囲し、配下の国人衆が次々と武田方に走って孤立した義清は支えることが出来ず、4月9日に戦うことなく葛尾城を脱出し、22日に八幡(千曲市)で五千の軍勢で武田軍と戦い、翌日葛尾城に在城していた武田軍於曽源八郎を倒して、更級・埴科・塩田平の旧領を回復して塩田城にて再起をはかりました。そして武田信玄は7月再度出陣し塩田城に迫り8月5日ついに義清は塩田城を脱出して越後の長尾景虎(のち上杉謙信)のもとに救援を求めました。これを受けて謙信は軍勢を信濃にいれ9月1日に八幡で武田軍を破りました。川中島の戦いの始まりです。越後軍は坂城南条まで進みましたが謙信の京への上洛と武田軍の撤退から1回目はここまでとなりました。よって1回目の川中島の戦いは坂城町を中心に行われたとも考えられます。その後、義清は川中島周辺を中心に信濃に踏みとどまっていたとされ、2回目の天文24年(1555)に武田軍が善光寺平まで攻め込み、義清が謙信に出兵を依頼して始まりました。この戦いで義清は所領を完全に失い謙信のもとに身を寄せたと思われます。

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義清供養塔
 田町にある村上義清供養塔

 この後義清は天正元年(1573)元旦、旧領回復を見ないまま越後山浦(新潟県阿賀野市)において七十三年の生涯を終えたといわれるが、 根知城(新潟県糸魚川市)で無くなったという説もあり他にも終焉の地とされるところも多くあります。
村上義清については
「坂木宿 ふるさと歴史館」TEL 0268−82−4193
にて 展示されています。

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