稲玉徳兵衛 

稲玉徳兵衛 1882年(文政5年)3月10日坂木村立町(現立町)に、旅籠屋を営む父昌安・母稲田の間に長男として生まれ、佐久間象山とともに松代藩の藩学校で学び医師であった埴鳳岳が医師業の傍ら開いていた寺子屋で徳兵衛は学びました。
 徳兵衛は坂木村の人口が増加しているのに耕地が増えていないことや、度重なる千曲川の洪水で水田が耕作不能に陥ったこともあり、凶作になれば食料不足になることを懸念し、そこで自ら開墾を計画し徳兵衛31歳の時、開墾に関する取極書をまとめ、353名の賛成署名を集めました。だた、開墾に賛成はできても資金の提供はできない者もあったため、徳兵衛はそうした人々に対し『費用雑用は一身に引き受ける』という証文を渡し賛同を得ています。翌年幕府(代官所)に山野開発願書を出願し、開墾に着手しました。当時の山野は地域住民が各組合ごとに特定の権利を持って秣場として利用しており(入会地)、山林原野を開拓すれば秣場が減少することから開墾に反対する者も多数おり、反対派の一部の者たちは開墾した畑や番小屋を破壊したりして妨害することもあり、徳兵衛は反対者に粘り強く説得に回り話し合いをしましたが進展はなく、徳兵衛は反対派の起こした事件を代官所に訴え出ますが取り上げられなかったため、江戸に直訴に出ました。この件で徳兵衛は差越願訴の罪で坂木宿の役人の管理下、宿預かりにされました。

開墾地
開墾地の現在

 当時の代官であった森孫三郎が反対派と徳兵衛の仲に立ち、開墾面積の調整によって開墾をめぐる一連の騒動は一件落着し、開墾地で試作を行い大成功を収め、収穫された産品を代官所に差し出し、代官所の役人も初めて開墾に賛成し、徳兵衛は反対派の人たちにも開墾の利益を説いたり、実地を見せたりして開墾に参加するよう誘いました。また、作物の葉なども秣として利用するなどの工夫もしたようです。こうして開墾に参加する者も徐々に増え、それに伴い開墾面積も広がり1859年(安政6年)徳兵衛37歳の時には代官所から“開墾地取締役”をするよう命ぜられました。
 その後徳兵衛は威鉄砲(鳥獣を威嚇するための鉄砲)一丁を下附されたり25両を無利息10ヵ年賦で貸与されたりと周囲からも応援してもらえるようになりました。この頃には誰言うともなく徳兵衛を“徳兵衛大明神”と讃えられるようになりました。徳兵衛が『生きながらにして神になった人』といわれる所以です。徳兵衛の計り知れない努力によって村民にも開墾の有益性が実証され、1872年(明治5年)に徳兵衛が亡くなった後も開墾は続けられました。徳兵衛の行った開墾は作物の増収だけでなく、開墾に参加した小前百姓や雇い人たちは賃金をもらえたため失業対策事業にもつながりました。

稲玉徳兵衛の墓
心光寺の稲玉徳兵衛の墓

 徳兵衛は山野の開墾のほかにも様々な事業を行っています。1865年(慶応元年)、千曲川の大洪水により鼠の岩鼻の道が欠落し、道路と水路が使用できなくなってしまいました。上田藩と松代藩からの要請によって新道開通と用水墜道併せての工事にも徳兵衛は深く関わりました。徳兵衛は道路事業にも深い関心を持っていたようで、後の横吹新道(現在の産業道路北口〜刈屋原榎坂までの千曲川沿い約742m)の開削工事(工事着手・完成は徳兵衛の死後)も徳兵衛の構想であったと思われます。
 また、同じ年には野馬飼育の成功を上田役場に奏上し、軍にご用馬を供出しています。
 このように自らの身命を傾け地域発展に貢献した徳兵衛でしたが、1872年(明治5年) 徳兵衛50歳の時、長野市の旅籠『鍵屋』でその生涯を閉じます。その亡骸は心光寺に埋葬されました。現在も心光寺には徳兵衛翁の墓所があります。

心光寺門
心光寺境内
心光寺

心光寺を中心にして「生誕185年記念 なるほど稲玉徳兵衛翁」を発刊しています。