昭和橋


千曲川に架かる昭和橋。
9つのアーチが連なり、平成14年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。国道18号を走っていれば誰でも気がつくはずです。この交差点が坂城市街地への入り口になります。
和平公園
和平高原は、国道18号線から自動車で20分ほどの近距離にある標高1,000mの高原地帯で、遠く北アルプスも眺望できる豊かな自然環境に恵まれ、ハイキング、山菜取り、自然探勝など、四季折々の自然が満喫できます。
坂城町では、昭和57年、この高原に収容人員100名の宿泊施設「和平高原山の家」を建築し、併せてキャンプ場の整備を行い、青少年や各種団体に自然体験の場を提供してきました。
和平高原を訪れる人の増加とともに、町民や企業の方々の公園設置要望が高まり、平成元年、和平高原の家及びキャンプ場周辺の1haを「和平高原」として整備しました。
この和平高原は、和平高原山の家、キャンプ場、フィールドアスレチック遊具、すべり台、幼児用のバネ式遊具を備えた広場や展望台が整備されており、老若男女を問わず楽しめる公園となっています。
公園施設概要
宿泊施設
山 の 家
収容人員
100名
大人
1人 一 泊 200円 高校生以上
日帰り 100円
小人
1人 一 泊 150円 小・中学生
日帰り 50円
バンガロー
収容人員
7名x3棟
一 泊 3,000円 一棟に付き
日帰り 1,500円 一棟につき
付帯施設
公衆便所1棟・炊事場1棟
あずまや1棟・木製ベンチ4基・丸太卓3基
展望案内板1基
フィールドアスレチック遊具・アルミローラーすべり台(25m)
使用手続
土曜日・日曜日・祭日を除く毎日午前8時30分から5時まで。
申し込み・問い合わせ先
坂城町びんぐしの里公園 tel 0268 82 0234
坂城町都市開発課 tel 0268 82 3111 内線 238
格致学校

「格致学校」の校名は、明治7年1月につけられました。 「格致」とは中国の古典"大学"の中に"格物致知"という言葉があり、これは、物事の道理をきわめて、自分の知識を完成するという意味で、これから引用したものであります。 当時の組合立学校には、このような校名が多いようです。 明治5年(1872年)に、国が決めた小学校の制度によって、旧埴科郡中之条・横尾の二つの村の組合立の学校として、中之条村「西念寺」を仮校舎にして学校が始まりました。 新校舎は 明治10年(1877年)に中之条村字一行寺跡(現在の雇用促進住宅付近)に建築を計画、村内の官林であった御堂山(みどうやま)の木の払い下げにより、同年10月に棟上式をおこない、工事費1,381円(当時、米10kgが51銭)をかけて翌年夏に完成しました。 その年の学区の戸数は405戸、人口は、1,623人でした。この内学齢者は184人でしたが、実際に学校に通った人は93人(男子56人・女子37人)で学齢者外の生徒も14人、6人の先生が勉強を教えていました。
昭和46年9月「坂城町指定有形文化財」に指定される。
昭和51年3月「長野県宝」に指定される。
また昭和58年3月には、移築復元工事が行われ、その時に「歴史民族資料館」としての機能も整備されました。
この学校の建物は、西洋の建物と昔から作られてきた日本の建物の特徴をあわせて持つ「擬洋風建築」(ぎようふうけんちく)といわれる建物で、明治時代の始めに西洋の人たちが多く住んでいた街に発達した建物の形に似ています。
正面入り口のアーチ形、ガラス入りでガラリと言われる細い板をはめ込んで作った開き戸を持つ窓、板を重ねて張りペンキを塗った「下見板」といわれる腰壁、石造の基礎及び塗装の色合いなどに外国の建物のイメージが感じられます。
逆に瓦ぶきの屋根、漆喰(しっくい)塗りといわれる白塗りの壁などは、日本の伝統な建物の造り方です。
全体的には装飾部分が少なく、
質素簡明な学校らしい雰囲気がある反面、文明開化により新しい文化を積極的にとりいれようとした当時の人達の心意気が伺えます。
坂城町格致学校歴史民族資料館
お問い合わせ 坂城町教育委員会
つけば・鮎釣り
初夏の風物詩「アユ釣り」は、豊かな川を象徴する光景です。
アユ、ウグイ、アマゴ、ニジマス、コイなど魚種も豊富で、これら川魚を河畔で料理する「つけば」は千曲川を代表する景観の一つです。
四月になると、千曲川では真っ赤な婚姻色を身につけたウグイ(はや)の産卵が始まります。 このとき、川の中に人工の産卵場所を作ってウグイを誘う「つけば漁」が行われます。
捕れたウグイは川岸に作られた「つけば小屋」で塩焼き・天ぷらなどに料理されます。
千曲川バラ公園
坂城町では、バラの切り花の産地であり、バラを町花としている
ことから、「花を育て」「花を楽しむ」拠点施設として、平成13年、雄
大な千曲川のほとりにバラ公園を完成させました。
毎年、90種900株のバラが、大輪の見事な花を咲かせ、わたした
ちの目を楽しませてくれています。
花の最盛期は5、6月頃ですので、お出かけください。
◎問い合わせ先 : 建設課、都市・公園係
電話82−3111(内線178)
有線88−1045
坂木宿 ふるさと歴史館
戦国時代に甲斐の武田信玄を2度も打ち破った郷土の名将・村上義清と、江戸時代、北国街道の宿場町として栄えた「坂木宿」の歴史・文化をひもとく様々な史料を展示する歴史館です。また、建物自体が、昭和4年に建築された木造建築を、当時のままに修復した趣ある建物でもあります。
◆開館時間 午前9時〜午後5時
(入館は午後4時30分まで)
◆休館日 月曜(月曜が休日の場合は翌日)・年末年始
◆展示室の観覧料 個人:100円
20人以上の団体:50円
(小学生及び町内中学生は無料)
◎問い合わせ先 坂木宿 ふるさと歴史館
TEL 0268−82−4193
葛尾城跡
県史跡 昭和49年1月17日指定
村上氏の本城の跡。葛尾山の山頂を占め、本郭・二の郭・三の郭および脇郭などが1直線上に尾根上にある。本郭が最高所を占め、長さ29m、幅12mの長方形、東北の一辺に土塁跡を残している。本郭の南西に下る尾根斜面を削って二の郭・三の郭があり、さらにその南西斜面に箕状の階段状の段郭が14面ある。それぞれの尾根上の郭の間には深い急斜面の堀切が設けられている。 本郭の南西千曲川に張り出した矢場佐間山(矢間狭間山の転誤の説も)(横吹山)の高所に支城があり、姫城(跡)という。大小二郭がある。 葛尾山の西の山腹斜面に大段・小段とよぶ台地がある。当時の米蔵・兵器庫・兵舎などがあった所で、それらに関係した出土品が多かった。 葛尾山の北東の尾根に湧水、西斜面の泉平にも湧水がありこの城の水の手であった。葛尾城は元中元年(1384)(元中9年の説も)村上義国(義次)が村上郷からその本拠を坂城郷に移して築城したと伝える。以来村上氏の本城であったが天文22年(1553)武田晴信(信玄)の攻略をうけて落城する。 今頂上に村上神社なる小祠がある。清和天皇・源(村上)盛清・村上義光・義国・義清の5柱を祭る。
笄の渡し
葛尾城が陥落し敗走の混乱の中、義清夫人は着のみ着のまま暗い山道を下って千曲川辺に、川を渡って荒砥城へ逃れようと、船頭にわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に力石につくことが出来、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡したという
満泉寺
本尊石造り釈迦如来座像
県宝 昭和39年8月20日指定
南北朝時代の作で、像高45.8cm。
円満な容姿と彫刻が特徴。
満泉寺は、曹洞宗、村上氏の菩提寺。もと御所沢にあった修善寺(天台宗)であったが、
永正元年(1504)に村上顕清の志願によって曹洞宗に改宗し村上山満泉寺と改めた。武田晴信(信玄)の侵攻によって焼失、以後荒廃する。「天正10年(1582)村上国清(景国)が海津城将に任ぜられたとき、その荒廃を憂いて村上氏居館跡に再建した。これが現在の満泉寺である。村上氏系図その他古記録を保存。
大英寺

天長二年(825)に僧空海により真言宗のてらとして創立され、当時の名称は「天長寺」となっており、天福元年(1233)に「天福寺」と名称が改められたが、天文22年(1573)に村上義清と武田信玄の戦中で戦火により消失した。その後、村上一族の計らいにより天正十年(1582)に「大英寺」と改め、更に、曹洞宗を宗派としたお寺で、真田氏の六文銭を頂いています。また、松井須磨子の句碑も境内にあります
耕雲寺

曹洞宗。天文22年(1553)甲州の耕雲寺の僧厳松乾巨が開き、寺名は武田晴信(信玄)の命名という。村上義清が晴信の攻略にあい葛尾落城の年である。晴信の民衆懐柔の寺院政策の一つであろう。はじめ横尾にあったが寛文年間に現地に移る。晴信の寺名命名書が残る。
参道の杉並木は町指定文化財(天然記念物)である。
十六夜観月堂
古来ここを十六夜山といい観月の勝地、旧更級八景の一。松尾芭蕉が更科紀行の途、姨捨で仲秋の月を賞した翌夜、ここで十六夜の月を賞した故地と伝う。その時の芭蕉が残した十六夜の句を刻んだ芭蕉十六夜塚が庭前に立つ。すなわち、正面に「桃青霊神」(挑青は芭蕉の青年時の俳号)、北側面に「いざよひもまた更級の郡かな」とある。この芭蕉塚は坂城横吹に建てた芭蕉十六夜塚が山崩れのため一時不明になったのを嘆いて.地方俳壇の人々が文政12年(1829)に芭蕉曽遊のこの十六夜山に再建したもの。現在の「月見堂」は安攻3年(1856)に再々建されたものである。伝承によれぱ寛治8年(1094)源(村上)顕清がこの地に流された時、配所の月をここに跳めて心を慰めた、と伝える。しかし実際に流されたのは盛清である。
坂城町指定文化財。





